日刊工業新聞

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◆出版社の視点からみた
『日本列島改造論』

 空前のベストセラー『日本列島改造論』 

日本列島改造論

 田中角栄氏の『日本列島改造論』が出版されたのは1972年(昭和47年)6月だった。わずか1年間で22刷の91万部を売り切るという空前のベストセラーとなった。当時、政治家の本は全く売れない時代だった。そのため、各省庁に買い取りをお願いしに出向いたほどだった。
 ベストセラーとなったのは、総理大臣の地方創生を描いた政策提言であるということ以外にも、いくつかの要因が重なったためである。
 まず出版時期である。当初4月末に刊行を予定していたが、著者が当時、通産大臣という多忙なポストにいたため、筆入れが遅れてしまった。そのため6月末の刊行となるのだが、偶然にもその17日後の7月7日に田中角栄内閣(第1次)が誕生する。結果的に本書が注目を集めるのには最高のタイミングとなった。
 次に、同氏の人柄と当時のニーズである。庶民性や行動力、頭の回転の速さといった人間としての魅力があった。また、日本の過密と過疎をなくし、都会と農村のあいだの富の格差を是正するという提言が若い人に受け入れられた。こうして政治や経済に関心のなかった地方の青年や婦人層にも広く読まれることとなった。

 他社の反応や産業界からの反響も大

 社内外の宣伝も効いた。
 「『日本列島改造論』が20日発売」という広告が日刊工業新聞に載ったのが1972年6月16日だった。同月19日付の「ほん」欄(新刊紹介欄)には江戸英雄三井不動産社長が書評を寄せ、「総合的な解決策を提示し、実行プランとしての迫力がある。力作である」と記している。21日付では永野重雄日本商工会議所会頭、芦原義重関西経済連合会会長、土光敏夫東芝社長、藤野忠次郎三菱商事社長がそれぞれ、「大胆なプランに共感」、「説得力ある改造哲学」、「若い世帯の混迷解く」、「勇気ある姿勢に感銘」と賛意を示した。
 『週刊新潮』の7月22日号は、同書を批判しながらも「今や霞が関のお役人の必読書といわれている一方、意外に若いOLが買っていく」と売れ行きの好調ぶりを認めている。
 『読売新聞』7月13日付夕刊の「サイドライト」には「日本列島改造論はやがて超ベストセラーになることは確実だとみられている。趣味と実益をかねて、国民はこれに飛びついた」と述べている。

日本列島改造論広告

 全国の地方書店で構成されている「新風会」は例年、ベストセラーないし優良書を選んで「新風賞」を授与している。『日本列島改造論』は第7回の新風賞を新潮社発行の有吉佐和子氏の『恍惚の人』とともに受賞した。新風賞の歴代受賞者や受賞作は豪華だ。過去から現在までの受賞者を見てみると、ピーター・ドラッカー氏、松下幸之助氏、村上春樹氏、吉本ばなな氏など世界的な著名人も名を連ねている。

コラム
[幻の『日本列島改造論』第2弾]

 『日本列島改造論』がベストセラーになったのち、一部地域で地価の暴騰が起こり、一部マスコミから同書は強い批判を受けた。地価問題については、同書の制作途中で田中通産大臣も、もう少し詳しく検討し、土地の造成が安くできて地価も安定する方策を付け加えようとしたのだが、それが間に合わなかったという事情もあった。
 決して地価問題を無視したわけではなく、むしろ地価の安定を目指したのが田中政策の根幹でもあった。その後、英国のブリタニカ国際年鑑に田中総理大臣の論文が掲載されているが、そのなかでは地価安定対策が強調されていた。
 このようなことから日本列島改造論の第2弾をつくろうという話が持ち上がった。第1弾が経済中心であったので、今度は内政面、外交面(アジア、中東、ソ連外交など)にも触れ、内政面では、特に教育、行政改革、技術開発問題に触れようということで、シナリオも試案ができ上がっていた。
 そして、いよいよ田中総理の口述予定をつくろうという段になった1974年12月9日に田中内閣が総辞職、同書の刊行は幻に終わった。

(注1)出典元:『日刊工業新聞100年史』、2015年11月発行、日刊工業新聞社100年史編纂委員会制作、日刊工業新聞社発行 非売品 
※上記記述内容の無断引用を禁じます。

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